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南房総、安房の国で大漁となった初かつおは、江戸に一番近い安房の船形港(舘山市)から、 押送船(おりょくりせん)という七丁櫓の当時の快速船で江戸湾(東京湾)を縦断して江戸日本橋の魚市場へ運ばれたという。

元禄(1688〜1704)の頃から鰹に思い切った高値がはじまる。 元禄から約百年、川柳が盛んになった天明(1781〜1789)の頃がかつおを正味すること頂点に達したようだ。

「江戸っ子、江戸っ子といっても・・・・」と啖呵を切りたい江戸っ子の中の江戸っ子は、高価な初鰹に男気を競う。

「かかあを質に入れても」と競い合って食べた初がつおは江戸に近い海で取れた4キロ前後のものと考えられている。

江戸っ子の初がつおは、西海より東海に至った、適度に脂ののった成熟期の鰹でなければあれほど庶民の間で、騒がれる訳がない。

十両を盗めば首が飛び、間男(今で言う失楽園)の代償は七両二分、下女の給料が一年で一両二分の時代の
「まな板に小判一枚初かつお」
「生けたごに小判を入れるめずらしさ」である。
ある調査によると、この頃の鰹の最高値は、一本、二両三分(一両は四分。一分は四朱。一朱は千文。即ち一両は16朱であり、四千文となる。) で、おそい鰹になると一両で16本もの最低記録とある。ここらあたりが標準だったろう。
高値に見栄をはる亭主は
「女房に半いさかいで初かつお」に、対して女房は
「意地づくで 女房かつおを なめもせず」と、抵抗。さらには 「女郎よりまだもかつおと女房いい」と、気丈夫な女房は、皮肉の一つも言い返す。
初鰹もいくらか出回ったころの句に
「その値では あわせが 新しくできる」とある。
江戸時代の草双紙類に絵がかれた初かつおの画でも、女房が質帳を持て着物(袷?)を質に入れて借りられるのも二分から一分くらいだろう。
のちに前出の
「女郎よりまだもかつおと女房いい」といった時期の鰹の値は(遊里で遊ぶ金額から計算して)一分から三分くらいであったと思われる。
この頃の鰹の小売りは一本ずつ売ったのが多いようで、長屋の連中で分け合っている記録が見える。 さて、いかに賞味した江戸の鰹といえども、大漁になると安くなることは必定で、高値をうらんでいた庶民の心情が現れている。
食い物を詰めても金を溜める「伊勢屋」も、この頃は安くなっているので、鰹売りの方から伊勢屋にも声をかている。
鰹は非常に鮮度の落ち易い魚である。だから、魚屋は値を下げてもできるだけ早く売りたい。
そこで
「今食えば よしと魚屋 おいてゆき」となるわけです。
鮮度がさらに落ちたものを生で食べると・・・・その結末は・・・・。
「恥ずかしさ 医者へ鰹の 値が知れる]
今はおろし生姜やニンニク、ワサビを薬味に使うが、昔はもっぱら日本芥子を使っていた。
芥子は香辛料の中でも最も殺菌力が強いといわれる薬味。
鰹の生食にこの薬味を珍重したのも、江戸の人たちの生活の千恵の一つだったはず。
江戸時代、徳川家継の生母に仕えた大奥の老女・絵島とのスキャンダル(絵島事件)で遠島になった役者の生島新五郎が、配所から二代目・市川菊五郎によせた句が
「初松魚(はつかつお)からしがなくて涙かな」そのかえし句が
「その芥子きいて涙の初かつお」です。

物価の今昔の比較には、よく米が用いられる。
日本人の主食だから、このこの米を用いて比較するのもひとつの方法で、あまり甚だしい誤謬もあるまい。
まず、天明の頃米の値段は、徳川幕府の指示によって、一両で一石(約142kgー昔の米は肥料の違いの関係で、実り良く一石は150kgといわれた)である。
今年の新米の自主流通価格に換算すると
新潟県魚沼産コシヒカリの場合・・・・・・・・・一石=1両は約\72,000
北海道産『きらら397』の場合・・・・・・・・・・約\38,000位
某有名スーパーのあきたこまちの無洗米では・・・約\82,500位
最高値の二両三分を『きらら397』で換算したら・・・・約\104,000にもなってしまいます。
江戸時代は自主流通米がなかったので、年貢米(配給米)で換算するとして1kg当りいくら位の勘定になるでしょう?
参考資料の一部は石黒 正吉氏の著書から
江戸中期のころ初鰹の出始めは、4月(新暦では5月)でした。
この季節は新緑が美しく、山では時鳥(ほととぎす)の初音がきかれ、この頃の俳人山口素堂が読んだ「目には青葉山ほととぎす初鰹」はあまりにも有名です。

この頃の鰹はたたきも良いが刺身は身がしまり、適当な歯ごたえと、淡白な味わいが身上である。
鰹はその時期その時期で格段に身の旨さが変わる魚である。旬の頃の本当の鰹のおいしさを、たたきでも刺身でも味わって戴きたいと思います。
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